2020年2月7日金曜日

あやまる勇気

 あなたは自分が間違っていた時に、素直に自分の非を認められますか?
「僕が間違っていた」「ごめんなさい」などのセリフを言うことができますか?


 これがなかなか難しいんですよね。僕もやっぱりできません。
 なぜなんでしょうか。


 誰かと会話をしていて、このまま話を続けているとどうもケンカに発展しそうな予感を感じ取る。しかもその原因はどうやら自分にありそうだ。僕がさっき言ったあのことは、そうだ、間違っていたんだ。僕は自分の勘違いをもとに発言してしまったんだ。にもかかわらず僕はさっき、偉そうにも相手を注意するようなことを言ってしまって……。
 でも、今さらもう引くに引けない。いや、引こうと思えばいつだって引けるのだが、何て言って引けばいいのか分からない。ううん、ほんとは分かってる。
「僕が間違っていた」
 ただそう言えばいいだけのことだ。でも言えない。僕の余計なプライドがそれを許さない。なんだよこのプライド。どこから出てきたこのプライド。あっちいけよこのプライド。ああ、言えない。


 このプライドよ、君の正体は何?


 僕はさっき、自分の勘違いにもとづいて相手を注意するようなことを相手に言った。それに対して、相手はそれを否定する言葉で言い返してきた。僕はさらにそれに言い返した。この時点で、僕の中に「自分が正しくて、相手が間違っている。僕はそれを証明するんだ」という信念が生まれた。ところが、相手を言い負かす前に、僕の中で答えが見えてしまった。「本当は相手が正しくて、自分が間違っているんだ」
 でも、今さらその方向に自分の発言をシフトすることはできない。
 なぜか。
 それは、僕が自分のことを相手より「上」だと信じているからだ。でも、真実は逆で、相手が「上」で自分が「下」だった。最大の勘違いはこれだったのだ。これを認めることは非常に恥ずかしい。何の根拠もないのに、勝手に相手を「下」だと判断してしまったのだから。


 こんな経験があります。


 学生時代、演劇サークルでの稽古中、ダンスを練習する時間がありました。同期の友だちが振り付けをして、それをみんなで練習する時間です。
 僕は昔から振り付けを覚えるのが得意だったので、振り付けを覚えるのが苦手な他の人に振り付けを教えることが普段から多かったのです。
 ある日、僕はみんなの前に立って「ここの振り付け、こうだよ」と、いつものように教えていました。ところが、様子がおかしいのです。
「え、なんかちがくない?」
 そんなはずあるものか。僕がやってるんだから、これが正しいに決まってるだろ。そう思って、僕は自分の非を認めませんでした。
「いや、こうだよ」
 間違った振り付けのダンスを僕は続けます。今考えると、自らを死へといざなう、呪いの舞いです。
 そうしているうちに、ダンスを振り付けた友だちがトイレから帰ってきました。僕は彼がトイレに行っていたから、みんなに振り付けを教えていたのです。そして、彼がぼくの踊りを見て言いました。
「あれ、そこそんなんだったっけ」
 明らかに僕の負けです。だって振り付けた本人が僕の間違いを指摘しているのだから、それが正しいはずです。それでも、何を思ったか僕はこう言い返しました。
「いや、こここうだったよ」
 何の根拠もありません。何の根拠もなく意地を張り始めました。これは、弾切れの拳銃の引き金をいつまでも弾き続けているのと同じことです。「銃撃ってるんだから、お前死ねよ」いや死なないよ。だって弾が入ってないんだもの。
 当然、そんな空振りを続けていくうちに、僕はどんどん追い詰められていきます。そしてついに、僕はあきらめました。僕が間違っていたことを認めたのです。
「あ、そっか」
 自分でもビックリしました。たったこれだけのセリフを言うのに、なんでこんなにも僕は苦しんだんだろう。なんでこんなに意地を張ったんだろう。僕はせめてこの苦しみを分かってもらうために、こう言いました。
「自分の間違いを認めることが、こんなにも難しいなんてね……」
 するとどうでしょう。今まで僕のせいで険悪だった空気が、みるみるうちにほぐれていくではありませんか。どうやらこういう経験はみんなにもあるようです。言わば、あるあるネタなんですね。
 その場にいた先輩の一人がこう言いました。
「第二次世界大戦の時の日本軍と同じだよ。なかなか負けを認めようとしなかったんだ」
 なるほど、と思いました。話のスケールは明らかに違いますが、でも根本的なところは同じなのかもしれません。


 さて、僕はこの時、なぜ自分の間違いをなかなか認められなかったのか。
 僕は「自分は振り付けを覚えるのがみんなより速い」という自負がありました。それゆえに、他の人たちを「振り付けの正確さ」において見下していたのです。僕は勝手に、稽古場内でのダンス上下関係なるものを作り出していました。でもそんな関係は本当は存在しません。言いかえれば、他の人はそんな上下関係なんて知らない、認識してないのです。みんなには見えていなくて、自分だけが見えているものが、果たして存在していると言えるでしょうか? 「トトロいるもん!」って言っても信じてもらえませんよね。大人には見えないんだから。
 そんな架空の上下関係に基づいて、上官である僕は部下である他の人に命令を下します。僕は将軍だから、大佐や少佐に命令を下すのは当然のことですよね?
「ここの振り付けはこうだぞ。従え」
 ところが部下は命令に従いません。
「そこはそういう振り付けではないであります」
「何を! 貴様、逆らう気か!」
 でも気づいてみたら、あれ、僕は将軍じゃないよ。君は大佐じゃないよ。僕が着ているのは軍服じゃなくて、ただのTシャツだよ。ちょっとパンツがはみ出してるよ。
 しかし僕は将軍を演じ続けます。なぜなら、僕は将軍であり続けたいからです。権力の果実の味を覚えてしまったのです。だからみんなに、この架空の上下関係を押し付け続けます。間違いを認めることとは、この上下関係を消し去ることなのです。


 なぜ僕たちは架空の上下関係を作り出してしまうのか。


 子どもの会話を思い浮かべてみてください。
「俺の方がつえーよ」
「俺の方がはえーよ」
「あたしの方がかわいいわよ」
 なんて意地の張り合いが聞こえてきますね。どうやら架空の上下関係を作り出すのは、人類の子どもの頃からの癖のようです。それが大人になっても直らないから、いくつになっても自分の間違いを認めることができない。僕たちは何かにつけて、自分の方が上だと言いたがる。僕の方がドングリをたくさん拾った、あたしの消しゴムの方がいい匂いがする、とか。
 人類が皆、架空の上下関係を作り出す傾向にあるのだとすれば、それはそういう性格を備えた個体の方が生き残りやすかったということでしょう。生存競争の話です。架空の上下関係を作り出して、他の個体をみんな自分より下だと思い込む。だから自分は他の個体を攻撃出来る。なるほど、これは自分だけが生き残りそうですね。オスだったら、他のオスを蹴散らして自分だけがメスと交尾をする。メスだったら、強いオスと交尾することで他のメスを見下す。そうして生存競争に強い個体が生み出される。
 確かにこの性格は生存競争において有利に働きそうです。でもどうでしょうか。この性格は今の僕たちにも必要なものでしょうか?


 よくこういうことを聞きます。
「権力を求めるのは男のロマンだ」「女は金と地位がある男に惹かれる」
 今こんな事を言うと不謹慎と捉えられてしまいますが、でもこの言説は本当は今でも有効なのではないかと思えてしまう自分がいます。「結局金持ってる男の方がモテるよなー」なんて思ったことも正直あります。
 でも、人生の全ての場面でこの性格を前面に押し出す必要は無いと思います。日常会話で「負け」を認めること。自分の方が下なんだと認めること。将軍の座を降りること。その行為は勇気ある行動と見なされます。それが必要とされる場面もあります。そうした方が好感が持てます。



 僕はあえて言います。
 負けを認められる人の方が「上」なんじゃないか。


ちゃんちゃん








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