2020年2月7日金曜日

あやまる勇気

 あなたは自分が間違っていた時に、素直に自分の非を認められますか?
「僕が間違っていた」「ごめんなさい」などのセリフを言うことができますか?


 これがなかなか難しいんですよね。僕もやっぱりできません。
 なぜなんでしょうか。


 誰かと会話をしていて、このまま話を続けているとどうもケンカに発展しそうな予感を感じ取る。しかもその原因はどうやら自分にありそうだ。僕がさっき言ったあのことは、そうだ、間違っていたんだ。僕は自分の勘違いをもとに発言してしまったんだ。にもかかわらず僕はさっき、偉そうにも相手を注意するようなことを言ってしまって……。
 でも、今さらもう引くに引けない。いや、引こうと思えばいつだって引けるのだが、何て言って引けばいいのか分からない。ううん、ほんとは分かってる。
「僕が間違っていた」
 ただそう言えばいいだけのことだ。でも言えない。僕の余計なプライドがそれを許さない。なんだよこのプライド。どこから出てきたこのプライド。あっちいけよこのプライド。ああ、言えない。


 このプライドよ、君の正体は何?


 僕はさっき、自分の勘違いにもとづいて相手を注意するようなことを相手に言った。それに対して、相手はそれを否定する言葉で言い返してきた。僕はさらにそれに言い返した。この時点で、僕の中に「自分が正しくて、相手が間違っている。僕はそれを証明するんだ」という信念が生まれた。ところが、相手を言い負かす前に、僕の中で答えが見えてしまった。「本当は相手が正しくて、自分が間違っているんだ」
 でも、今さらその方向に自分の発言をシフトすることはできない。
 なぜか。
 それは、僕が自分のことを相手より「上」だと信じているからだ。でも、真実は逆で、相手が「上」で自分が「下」だった。最大の勘違いはこれだったのだ。これを認めることは非常に恥ずかしい。何の根拠もないのに、勝手に相手を「下」だと判断してしまったのだから。


 こんな経験があります。


 学生時代、演劇サークルでの稽古中、ダンスを練習する時間がありました。同期の友だちが振り付けをして、それをみんなで練習する時間です。
 僕は昔から振り付けを覚えるのが得意だったので、振り付けを覚えるのが苦手な他の人に振り付けを教えることが普段から多かったのです。
 ある日、僕はみんなの前に立って「ここの振り付け、こうだよ」と、いつものように教えていました。ところが、様子がおかしいのです。
「え、なんかちがくない?」
 そんなはずあるものか。僕がやってるんだから、これが正しいに決まってるだろ。そう思って、僕は自分の非を認めませんでした。
「いや、こうだよ」
 間違った振り付けのダンスを僕は続けます。今考えると、自らを死へといざなう、呪いの舞いです。
 そうしているうちに、ダンスを振り付けた友だちがトイレから帰ってきました。僕は彼がトイレに行っていたから、みんなに振り付けを教えていたのです。そして、彼がぼくの踊りを見て言いました。
「あれ、そこそんなんだったっけ」
 明らかに僕の負けです。だって振り付けた本人が僕の間違いを指摘しているのだから、それが正しいはずです。それでも、何を思ったか僕はこう言い返しました。
「いや、こここうだったよ」
 何の根拠もありません。何の根拠もなく意地を張り始めました。これは、弾切れの拳銃の引き金をいつまでも弾き続けているのと同じことです。「銃撃ってるんだから、お前死ねよ」いや死なないよ。だって弾が入ってないんだもの。
 当然、そんな空振りを続けていくうちに、僕はどんどん追い詰められていきます。そしてついに、僕はあきらめました。僕が間違っていたことを認めたのです。
「あ、そっか」
 自分でもビックリしました。たったこれだけのセリフを言うのに、なんでこんなにも僕は苦しんだんだろう。なんでこんなに意地を張ったんだろう。僕はせめてこの苦しみを分かってもらうために、こう言いました。
「自分の間違いを認めることが、こんなにも難しいなんてね……」
 するとどうでしょう。今まで僕のせいで険悪だった空気が、みるみるうちにほぐれていくではありませんか。どうやらこういう経験はみんなにもあるようです。言わば、あるあるネタなんですね。
 その場にいた先輩の一人がこう言いました。
「第二次世界大戦の時の日本軍と同じだよ。なかなか負けを認めようとしなかったんだ」
 なるほど、と思いました。話のスケールは明らかに違いますが、でも根本的なところは同じなのかもしれません。


 さて、僕はこの時、なぜ自分の間違いをなかなか認められなかったのか。
 僕は「自分は振り付けを覚えるのがみんなより速い」という自負がありました。それゆえに、他の人たちを「振り付けの正確さ」において見下していたのです。僕は勝手に、稽古場内でのダンス上下関係なるものを作り出していました。でもそんな関係は本当は存在しません。言いかえれば、他の人はそんな上下関係なんて知らない、認識してないのです。みんなには見えていなくて、自分だけが見えているものが、果たして存在していると言えるでしょうか? 「トトロいるもん!」って言っても信じてもらえませんよね。大人には見えないんだから。
 そんな架空の上下関係に基づいて、上官である僕は部下である他の人に命令を下します。僕は将軍だから、大佐や少佐に命令を下すのは当然のことですよね?
「ここの振り付けはこうだぞ。従え」
 ところが部下は命令に従いません。
「そこはそういう振り付けではないであります」
「何を! 貴様、逆らう気か!」
 でも気づいてみたら、あれ、僕は将軍じゃないよ。君は大佐じゃないよ。僕が着ているのは軍服じゃなくて、ただのTシャツだよ。ちょっとパンツがはみ出してるよ。
 しかし僕は将軍を演じ続けます。なぜなら、僕は将軍であり続けたいからです。権力の果実の味を覚えてしまったのです。だからみんなに、この架空の上下関係を押し付け続けます。間違いを認めることとは、この上下関係を消し去ることなのです。


 なぜ僕たちは架空の上下関係を作り出してしまうのか。


 子どもの会話を思い浮かべてみてください。
「俺の方がつえーよ」
「俺の方がはえーよ」
「あたしの方がかわいいわよ」
 なんて意地の張り合いが聞こえてきますね。どうやら架空の上下関係を作り出すのは、人類の子どもの頃からの癖のようです。それが大人になっても直らないから、いくつになっても自分の間違いを認めることができない。僕たちは何かにつけて、自分の方が上だと言いたがる。僕の方がドングリをたくさん拾った、あたしの消しゴムの方がいい匂いがする、とか。
 人類が皆、架空の上下関係を作り出す傾向にあるのだとすれば、それはそういう性格を備えた個体の方が生き残りやすかったということでしょう。生存競争の話です。架空の上下関係を作り出して、他の個体をみんな自分より下だと思い込む。だから自分は他の個体を攻撃出来る。なるほど、これは自分だけが生き残りそうですね。オスだったら、他のオスを蹴散らして自分だけがメスと交尾をする。メスだったら、強いオスと交尾することで他のメスを見下す。そうして生存競争に強い個体が生み出される。
 確かにこの性格は生存競争において有利に働きそうです。でもどうでしょうか。この性格は今の僕たちにも必要なものでしょうか?


 よくこういうことを聞きます。
「権力を求めるのは男のロマンだ」「女は金と地位がある男に惹かれる」
 今こんな事を言うと不謹慎と捉えられてしまいますが、でもこの言説は本当は今でも有効なのではないかと思えてしまう自分がいます。「結局金持ってる男の方がモテるよなー」なんて思ったことも正直あります。
 でも、人生の全ての場面でこの性格を前面に押し出す必要は無いと思います。日常会話で「負け」を認めること。自分の方が下なんだと認めること。将軍の座を降りること。その行為は勇気ある行動と見なされます。それが必要とされる場面もあります。そうした方が好感が持てます。



 僕はあえて言います。
 負けを認められる人の方が「上」なんじゃないか。


ちゃんちゃん








2020年2月5日水曜日

肩の力で世界を変える

 日本人はとにかく「肩の力抜けよ」というセリフが大好きですよね。僕は子どものころからこのセリフをいろんなところで見てきました。漫画、アニメ、ドラマ、小説、とにかく日本人は「肩の力」を抜かせたいようなのです。具体的にどれだけの作品で出てきたというのは分かりませんが、確実に覚えているのは『NARUTO』ですね。まだ最初の方、サスケがナルトの急成長ぶりに脅威を感じて、自分が追い抜かされるんじゃないかとイラ立っている時。うちは一族の復活を目指す俺が、あのドベのナルトに負けるなんて許せない。ということで、サスケはカカシ先生に修行に付き合ってもらっていて、度々ナルトと喧嘩していたのですが、どうしてもムキになってしまう。そんなサスケを見てカカシ先生は「肩の力を抜けよ」と言う。


 って思ってたんだけど、探してみたらそのシーンが見つからない。あると思ったんだけどなあ……。まあいいや。


 だから、僕は子どものころから「肩に力を入れることは悪いことなんだ」と刷り込まれてきました。何をするにしても肩だけには力を入れてはならない。だからどんなときもリラックスして、力まずに、気楽に、自分のペースを崩さないように生きてきました。それが功を奏したことも多々ありました。


 例えば松屋でのバイト。松屋では毎日12時くらいになると大量にお客さんがやってきます。注文も受けなきゃいけないし、料理の提供もしなきゃならないし、丼ぶりも洗わなきゃいけないし、弁当のお客さんの対応(別窓口なの)もしなきゃいけないし、しかもその全てをミスしてはいけない。もうてんやわんやで、入ったばかりの頃は本当に大変でした。辞めたいと思ったこともありました。でも、3か月くらいすると、その大変さも慣れてきます。そうなると、いつものあの原則を思い出す余裕も生まれます。
「肩に力を入れてはいけない」
 いかんいかん。肩に力を入れてしまっていた。そうだよ。どれだけ僕があわてたって、一つ一つの料理が出来上がる時間は変わらないし、お客さんが食べ終わる時間も変わらないんだから、食券を買って並んでるお客さんを待たせる時間も短くすることなんて出来ない。だから、あわててもしょうがない。あわてる暇があるんだったら、次に何をすればいいのか、落ち着いて考えよう。
 それ以来、僕はそのテンポで一番の店員さんを自負してきました。常に落ち着いた笑顔でお客さんを等しくもてなし、提供も片づけも速い、声も出てる、文句ないじゃないか!
 というわけで、僕は「肩に力を入れてはいけない」という信条をますます強化するのです。



 でも、時々考えます。肩に力を入れること、力んでしまうことって本当に悪いことなのでしょうか?
 最近肩に力を入れてしまう時といえば、本を読む時です。読もうと思って買った本が大量にあるので、当然それらを早く読まなきゃいけないし、早く読みたいのです。でも本を読んでいると、最近なぜか集中できない。すぐに他のことを考えてしまう。「コナンのアニメの次の話見なきゃ」「運動しなきゃ」「おやつ食べたいな」「あ、猫背になってるから姿勢正さなきゃ」とかなんとか。それも当然、だって読んでいる本のすぐ周りには、他の本、iPad、スマホ、テレビなど、いろんな誘惑があるのだから。そう、ここは家。だったら外出てカフェでもいけばいいじゃない。しかし、それでもスマホとiPadは持って行ってしまう。こりゃ読書なんて永遠に無理だな……。
 そんな時、あれ? なんか読書に集中できてる! という瞬間があります(そう思った時点で集中が途切れてるんですけど)。そういう時は、目と肩に力が入っているのです。「いかんいかん」ととっさに首と肩を回し力を抜くのですが、そうすると今度はまた読書に集中できなくなっている。どうしたものか。こうなりゃいっそ思いっきり力を入れてみるか! てなわけで、最近は本を読むときには一行一行をにらみつけるように読んでいます。まあ疲れはしますが、でも読書スピードは上がりました。


 「肩に力が入ること」というのは、必ずしも悪いことというわけではなさそうです。では、なんで日本人は他人の肩の力を抜かせたがるのでしょうか? 肩の力を抜かせることで一体どんなことを回避しようとしているのでしょうか(問いを立てる)?
 肩に力が入ると、まずその人の方が凝りますね。目も疲れてしまい、伸びをすると関節がポキポキ音を立てる。たしかにそんな状態でずっといると、身体に悪そうですね。最悪の場合ヘルニアになってしまいます。「肩の力抜けよ」と言う人は、その人の身体がをいたわっているのかもしれません。



 それから、こうも考えられます。肩に力が入ると、むしろ業務はうまく進まなくなるのではないか。確かに、僕も松屋でのバイトを始めた頃は肩に力が入り、ピーク時はいつもあたふたするばかりでした。しかし一方で、本を読む時は肩に力が入っていた方が読書が速くなります。肩に力が入ると、作業効率が上がる業務と下がる業務があるようですね。肩に力が入ると、「松屋のバイト」は作業効率が下がり、「読書」は作業効率が上がります。この2つの業務のちがいは何か。
 それは、「見るべきコトの範囲の広さ」です。
 「松屋のバイト」は、見るべき範囲はとても広いです。入口付近を見て新しいお客さんが入ってきていないか、そのお客さんが何か困っていないか、料理は正しく配膳されているか、丼ぶりはまだ十分にあるか、米はまだ十分にあるか、とにかく「見るべきコトの範囲」が広いです。いろんなコトに気を配らなければなりません。このような業務では、肩の力を抜くべきです。
 それに対して「読書」はどうでしょう。「見るべきコト」は、ただ目の前の一行ですね。だったらむしろ肩の力は入れるべきと言えますね。
 つまり、ある時点での肩への力の入り加減は、その時点で集中している範囲の広さと比例しているということになります。ということは、目の前のコトに集中するべき業務であれば肩に力を入れ、広範囲のコトに気を配る業務であれば肩の力を抜くという気持ちの切り替えを意識すれば、僕たちはどんな仕事も高効率で進めることが出来るようになるかもしれません。
 もちろん、ある業務がこの2種類のどちらに分類されるのかは明確に判断できるものではりません。肩に力を入れるべき業務であっても、どれほどの力を入れるべきかは程度があると思います。「肩に力を入れるべき業務(緊肩作業)」と「肩の力を抜くべき業務(緩肩作業)」との間には、無限の「肩の力スペクトル」が広がっています。今やるべき業務が「肩の力スペクトル」のどの位置にあるのかを考え、そのレベルに合わせた力を肩に入れることが大事です。



 ただ、先ほども書いたように、肩に力が入った状態が長く続けば、当然身体に支障をきたします。だから、読書やパソコン作業、豆運びなどの「緊肩作業」では、マメに身体を伸ばしてあげることが必要ですね。どのくらいの頻度で体を伸ばせばよいのか、それも「肩の力スペクトル」の位置から算出することが可能です。



 以上、僕の仕事論でした!


 ちゃんちゃん


2020年2月4日火曜日

モブのメイド

 昨日に続いてコナンのアニメの話を。



 コナンのアニメは毎回ちゃんとテーマがあって、それは親子関係だったり男女愛、友達間の不和など人間関係に関するものが多い。人間関係の失敗によって殺人事件に至ってしまうというケースがほとんどです。それが視聴者の心に触れ、毎回毎回涙が出そうな結末になる。それがコナンのアニメのすごいところなのです。そしてコナンは探偵としてしょっちゅうそんな悲しい現場に居合わせていて、その分普通の高校生よりも成長しているのでしょう。だからあんなにカッコいいセリフで話を締められるんだなあと思っています。話の最後に犯人が犯行に至った経緯を話し、それに伴って自分の心がどう変わっていったのか、自分がどう苦しんできたのかを吐露するのですが、視聴者は最後にコナンと一緒にその叫びを受け止めることでジーンと来るのです。



 ところで、僕がコナンのアニメを見ていて最も印象に残っているセリフがあります。それは、コナンのアニメの記念すべき第1話の冒頭シーン、工藤新一が視聴者の前で初めて解決した事件でのことです。



 ある金持ちの屋敷で行われたパーティーの最中に殺人事件が起きた。おそらく警察からの依頼でやってきた工藤新一は、見事トリックを見破り、犯人が屋敷の主人であることを暴きました。主人は足が悪くて車イスに座っていたのですが、実はそれは演技で、足は三ヶ月前にとっくに治っていたのです。新一はその事を見せるために、そばにあった地球儀を主人めがけて投げました。すると、とっさに主人が立って避けたのです。屋敷の主人が、足が悪いはずなのに堂々と立っているではありませんか。それを見た屋敷のメイドがこう叫びました。



「だ、だんな様、足が…」



 この些細なセリフ。僕はこのセリフがコナンのアニメで一番印象に残っているのです。作中でこのメイドはこのセリフしか喋っていません。それでも、いや、だからこそ、このセリフからメイドの心中を想像せずにはいられないのです。



 この屋敷はおそらく建てられてから二十年以上は経っていることでしょう。そしてこのメイドも、この屋敷で働いて五年といったところでしょうか。年齢は二十代半ばほど。大学には行かず、高校を卒業後すぐに上京し、いくつかバイトを転々とした後、たまたま知り合った会社役員の紹介でこの屋敷で住み込みで働くことになった。今までに見たことのない高給に、メイドはたいそう喜んだことでしょう。彼女は上京してから初めて、山形の実家に仕送りをすることができ、ようやく父母の心配を解消することができて涙を流しました。ここの主人にはいくら感謝をしてもしきれません。仕事は確かに大変ではあるけれど、一つひとつの作業にメイドはやりがいをもって取り組んでいました。他の使用人たちともうまくやっていて、仲の良い男性もいます。将来のことも明るく考えられるようになり、メイドはとても幸せでした。
 そして五年の歳月が過ぎました。ある日、屋鋪の主人が出先で転んでしまい足の骨を折ってしまいました。使用人たちはみな心配しました。それ以来、主人の世話をすることが増えました。そんな中、あの事件が起きたのです。屋敷で開かれたパーティーの最中に殺人事件が起きた。
 すぐに警察と高校生探偵がやってきて捜査が開始された。見知らぬ人たちが屋敷内で目まぐるしく動き回っているのを前にして、メイドはただただ戸惑っていました。自分の家同然である屋敷内で起きている出来事のはずなのに、自分はここにはいないような、自分だけ世界から取り残されてしまったような。あれよあれよという間に高校生探偵が全員を集めて、推理ショーを始めました。メイドはここでようやく、少しだけ心を落ち着かせることが出来ました。高校生探偵はすぐに事件の犯人を言うのではなく、事の顛末を最初から事細かに、自分でも分かるくらい丁寧に話すことから始めたのです。この屋敷内で起こった事なのに、その高校生探偵は自分よりもはるかに細かく把握しているので、メイドは自分の頭の回転の悪さを恥じる前に、彼の頭脳と鮮やかな口調に感動していました。あれを見るまでは。
 高校生探偵の推理ショーはいつの間にか終盤に入っていて、後は犯人を名指すだけとなっていました。一体犯人は誰なのか。メイドを含め、その場にいた全員の視線が高校生探偵に集まります。高校生探偵が指さした先には、屋敷の主人がいました。いや、でも、そんな、だんな様は足が悪いはずだから、そんな大層な犯行など出来るはずがない。この高校生探偵は何を言っているんだ? メイドは困惑し、高校生探偵に嫌な感情を抱きました。その直後、高校生探偵がだんな様めがけて地球儀を投げました。危ない! と思ったのも束の間。だんな様が立っている。どういうこと? だって、だんな様はずっと足が悪いはず。私も長い間お世話をしていて、ずっと見てきた。そう信じていた。それなのに、目の前の現実は私にノーと言っている。メイドはこう叫んだ。
「だ、だんな様、足が……」

 この時のメイドはいったいどんな気持ちだったのか。驚き、悲しみ、裏切られた、いろんな思いが錯綜し、メイド自身にも分からなかったかもしれません。でも、その後のメイドの人生を考えてみてください。おそらくこの屋敷での仕事は無くなるでしょう。メイドは再び安月給のバイト生活に戻り、将来を考えても明るい気持ちにはなれなくなったことでしょう。
 私が屋敷で過ごした五年間はいったい何だったのだろう。だんな様の足の骨折と同じく、自分が抱いていた幻想だったのかもしれない。だったら私はだんな様にずっと騙されていたの? 自分もあの高校生探偵と同じくらい頭が良かったなら、答えを見つけられるのかもしれない。でも自分はただ頭の回転の悪いメイド、いや、もうメイドですらない。きっと永遠に分からないまま。
 そういえば、あの高校生探偵、名前なんて言ったっけ? 確か、工藤……新一。最近彼の名前も聞かなくなったな。今ごろ何してるんだろうな。




 なんて考えてしまいます。コナンのセリフより、あのメイドの悲痛な一言の方が、僕の心に深く残っているのです。みなさんはコナンのアニメで印象に残っているセリフはなんですか?

ちゃんちゃん




2020年2月3日月曜日

コナンくんカワイイ

 最近、U-NEXTという動画配信サービスでアニメ『名探偵コナン』を第1話から見ています。コナンのアニメは今でも続いていて、毎年公開される映画は、今日本で一番人気のあるアニメ映画なんじゃないかなと思います。



 そんなコナンのアニメが始まったのが、1996年の1月8日(Wikipedia調べ)。僕が生まれた約一年後のことです。つまり、今年で24年目というわけですね。こんなに長く続いていることからも、コナンのアニメがとても人気があることが分かりますよね。



 ところで、コナンのアニメについての感想を見ていると、コナンくんについて「カッコいい」と感じている方が多いようです。たしかにコナンくんはカッコいいですよね。特にそれが顕著に表れるのが劇場版。いつもの名推理っぷりだけでなく、犯人に立ち向かうその威勢のよさ、なんとしても被害が出るのを食い止めようと奔走するコナンくんの姿に、僕たちは「カッコいい」と思うのです。



 でも、僕はむしろコナンくんを「カワイイ」という目で見ることをオススメしたいです。よく考えてみてください。コナンくんこと工藤新一は高校二年生の17歳です。社会的にはまだギリギリ子どもとされる年齢でありながら、彼は普段からとても大人びた言動を繰り返しています。しかも工藤新一はAPTX4869という薬を飲まされて小学一年生の姿に戻っています。その「小学一年生」の子どもがあんな大人びた雰囲気を出しているという姿は、僕は「カッコいい」というよりも「カワイイ」と感じられてしまうのです。なぜか。



 それはコナンのアニメを見てみると分かります。上記のぼくの文を見返してみると、僕はいちいち「コナンの”アニメ”」と、「アニメ」であることを強調しています。漫画のコナンとは違うということを言いたいのです。当然ですが、漫画のコナンくんは動いていないのに対して、アニメのコナンくんは動いています。漫画をアニメにするためには、一コマ目でのコナンくんのポーズと、二コマ目でのコナンくんのポーズとをつなぐ動きを考えて描き込まないといけません。アニメを見ていると、“今”しゃべっているキャラ以外はピタッと止まっているシーンが多く見受けられます(演劇でもそうですね)。これは、視聴者の目線を今しゃべっているキャラに集中させるためと、アニメーターの方々の作業を減らすためという2つの目的が考えられます(あくまで僕の想像です)。



 それにも関わらず、今しゃべってはいないキャラ以外のキャラが動いていることもあります。そのキャラの動きが次のシーンにつながるからだったり、後のシーンのための大事な伏線だからだと思われるのですが、他のシーンに全くつながらない関係ない動きをしているキャラがいることもあります。いわゆる「遊び」です。絵コンテの人や演出家や、はたまたアニメーターの気まぐれなのか分かりませんが、そういう「遊び」がときおりアニメ上に現れることがあります。そしてそういう「遊び」が一部の視聴者にウケて、ネットでの会話の種になるという現象は、近年のSNS界隈などでは日常茶飯事といってもいいでしょう。




 そして、コナンのアニメでも似たような「遊び」があります。それがコナンくんの動きです。コナンでは、コナンくんが殺人事件の現場に入るもすぐに小五郎に追い出されるというお決まりの流れがあります。それは漫画でも同じです。漫画では小五郎につまみだされて不貞腐れている顔を描いたり、殴られていたがってる描写をすればそれで終わりなのですが、アニメだとそうはいきません。小五郎につかまって投げ出されたのだとしてら、コナンくんが宙を飛んでいく様子をちゃんと書かないといけないのです。つまり、コナンくんが小五郎の手から投げ出されてから床に落ちるまで、もしくは落ちた直後は、「遊び」の余地があるのです。



 ここで、アニメ『名探偵コナン』の第27話(第1シーズン)「小五郎の同窓会殺人事件(前編)」をご覧ください。死体がある部屋でコナンが小五郎につかまれて廊下まで連れ出されて床に投げ出されるのですが、その時のコナンくんの動きに注目です。コナンくんが見事着地を決めています。原作にはそのような描写はありません。これこそ、アニメ化における「遊び」です。



 僕がここで言いたいのは、アニメ独特の「遊び」っておもしろいよねってことではなくて、コナンくんの動きに「遊び」が足されたコナンくんってカワイイよね! ってことです。繰り返しになりますが、コナンくんは「小学一年生」の姿で高校二年生以上の大人にまで“背伸び”をしています。それだけでもカワイイのに、そこに「遊び」が足されることによってより「子どもらしさ」もしくは「小学一年生らしさ」が際立つのです。これが非常にいい。

ちゃんちゃん

2020年2月2日日曜日

優越感好きでしょう

 誰でも優越感に浸りたいと思うことでしょう。僕もそうです。
 「俺、あいつらよりすごいんだぜ」って思いたいでしょ。



 簡単な方法があります。



 それは「ルールを守ること」です。



 ルールというのは何のルールでもいいです。ルールを守ってさえいれば、あなたは簡単に優越感に浸ることができます。
 なぜなら、世の中にはルールを守らない人が大勢いるからです。どんなに丁寧にお願いしても、なかなかルールを守ってくれない人が一定数います。そういう人たちがいるおかげで、僕たちはルールを守ることで優越感をゲットすることができるのです。



 ここで、僕オススメのルールを紹介します。このルールは誰でも簡単に守れるものです。

・エスカレーターでは(右側であっても)歩かない
 エスカレーターの出入り口付近に「歩行禁止」という注意書きが貼ってあるのをご存知ですか? そうなんですよ、エスカレーターは本来歩いてはいけないのです。歩くと振動で突然の停止につながりかねませんし、左側だけに偏って止まって乗っていると、左側だけに偏って摩耗してしまうのです。去年の夏ごろから全国の鉄道事業者の間で「エスカレーター乗り方革命」というキャンペーンが始まりました。エスカレーターの正しい乗り方を広めようと、エスカレーター周辺の壁に正しい乗り方を記載したポスターを張り、また当初は駅員がエスカレーターの出入り口に立って歩かないよう呼び掛けたりという活動をやっていました。
 でも、未だに右側を堂々と歩く人たちがたくさんいます。右側に立って歩かないでいると、後ろから人が歩いてきて僕の真後ろで立ち止まります。それだけで済めばいいのですが、たまに「どいてください」なんて言ってくることもあります。あれは正直怖いです。何度も言いますが、エスカレーターは歩いてはいけないのです。
 あなたはエスカレーターでちゃんと止まるだけで、そういう人たちに対して優越感を感じることができます。


・車を運転する際は、制限速度を守り、車間距離をしっかり取る
 道路際にはその道路を時速何キロまで出していいのか書いた看板がありますね。30だったら時速30キロまで出していいのです。または看板ではなく、道路に黄色い文字ででかでかと書かれていることもあります。もし書かれていなかったら、一般道だったら60キロまで、高速道路だったら普通車は100キロまでと決まっています。
 しかし、普段車を運転していると、30キロの道で堂々と50キロを出している人がいます。スピードオーバーすると、横断歩道を渡ろうとしている人に気づけなかったり、急に止まろうと思ったときに急ブレーキをかけざるをえなくなったりと、事故につながる可能性が高くなります。
 それから、車間距離をしっかり取っていいない人も多いですね。車間距離はスピードを出していればいるほど長く取る必要があります。高速道路ならなおさらです。
 あなたは制限速度を守り、車間距離をちゃんと取るだけで、そういう人たちに対して優越感を感じることができます。

・映画館で映画を見ているときはスマホの電源を切る
 僕は映画館によく映画を見に行くのですが、たま~に上映中に「ブブ」という音が聞こえてくることがあります。スマホのマナーモードですね。しかもそれだけでなく、誰からどんな連絡が来たのか、その場で確認しようとする人がいるのです。するとどうでしょう。当然周りの人の目にスマホの画面から漏れる光が入ってきますよね。イライラしますよね。スマホの電源を最初から切っていればいいのです。
 あなたは映画の上映中にスマホの電源を切るだけで、そういう人たちに対して優越感を感じることができるのです。


ちゃんちゃん

2020年2月1日土曜日

ブログタイトルに込められた意味

 このブログのタイトルは「doradora's パラダイス」です。



 これは、僕が高1くらいのころに作ったアメーバブログのタイトルを引き継いでいます。当時は何も考えずに、ただ語感が良いから、響きだけでテキトーに決めました。だからブログのテーマなんてありません。こんなことを書きますなんてものもありません。でした。


 でも、さっき、車を運転しているときに「あ、これいいんじゃないかな!」と思ったことがあったのです。いい感じのブログのテーマを思いつきました。



 僕の生き方や小さなこだわりを書こう。



 僕の好きな歌手のスガシカオの曲で『楽園』というものがあります。シングル『コノユビトマレ』(もう12年前か!!)の3曲目に収録されているカップリング曲です。この曲は発表された後も何かのベストアルバムに収録されたりとか、スガシカオ本人からも特に言及は無かった(かと思います……)りと、特に目立った曲ではありません。「スガシカオ 楽園」で調べても、ほとんど歌詞情報しか出てきません。



 でも、僕はスガシカオの曲を脳内でランダム再生すると、なぜかこの『楽園』が最初の方に出てくるのです。



 なんかね、イイ曲なんですよ。曲の雰囲気は割りとゆったりしてて暖かくて、でもアコギのジャカジャカしてる音はけっこうリズミカルで、のんびりできるけどどこかアブなくて眠くならない感じ。で、歌詞はやっぱりさすがスガシカオ、心の深くにズズッと入ってくる内容。



 「世界中の人が全部 もし ぼくだったら」で始まるこの歌は、究極の自己中の快感とそれに伴う矛盾をうたったもの。ぼくだけの世界だったら悪いことも罪もない、何をやっても問題ない。なぜなら、まわりはみんなぼくだから、ぼくの気に障ることをしないようにちゃんとわきまえている。でも、いざそんなことをちょっと真面目に考えてみると、「いざ自分がもう一人いたら、そいつに対してちゃんと気を遣えるかな」と余計なことを考えてしまって結局めんどくさくなってしまう。



 僕はライブでこの曲が演奏されるのを聞いたことがありません。ヒトリシュガーだったらやったこともあるのかもしれないけど、残念ながらヒトリシュガーには一回しか行ったことがありません。ファン失格ですね……。でも、この目立たない曲を、僕は高確率で脳内再生するのは、やっぱりこの曲に惹かれているからだと思うのです。そして、車を運転しながら僕はいつものように突然この曲が脳内再生された。そういえば「楽園」って「パラダイス」のことだよね? ってばかみたいなことを思った。



 だから、この「doradora's パラダイス」も僕の自己中を書いていこう。僕の朝から晩までを通して、何かをする際にこだわっていること、気をつけていることを書き留めておこうと思います。結局普通のテーマですね。ブログってそもそもそういうものだよね。



 なんにせよ、このブログを読むと僕の人柄が分かります。僕に会ったことがある人は「ああ篠田っぽいな」と思うことでしょう。僕に会ったことがない人は会える時を楽しみにしていてください。


ちゃんちゃん

「考える」って何?

 考えることは大切なこと。みなさんも世の中のこと、自分の将来のこと、身の回りの他人のことをもっともっと考えましょう。



 とはいいますが、「○○について考えましょう」と言われて具体的に何をすればいいのでしょうか? 「考える」って何でしょうか? 目的は何?



 たとえば、「環境問題について考えましょう」と言われたらどんなことをしますか? 地球温暖化って大変だよね。二酸化炭素とかの温室効果ガスが原因なんでしょ? それで台風とかも増えて、去年も大変だったよね。あとは最近は海洋プラスチック問題なんてのもあるよね。僕もプラスチック製品を使うときには気を遣ってみよかな……。
 なんかいろいろ思い出してはいるけれど、環境問題について「考え」てみた結果どうなったでしょうか? きっと、何も変わりません。「気を遣ってみようかな」なんて最後に言ってみたけど、「気を遣う」って何? 具体的にどんなことをするの? 結局あいまいなことばかりで、めんどくささが先行してしまって僕は何も変わりません。僕は具体性が伴わないと何もしないんでしょうな。



 あいまいなことがイヤな僕は、あいまいなことしか浮かばない時間がムダに感じられてしょうがない。それはそれで良いじゃないという方もいると思いますよ。まったりとどうでもいいことを考えていきましょって人もいると思います。僕もそういう時間は好きです。でもせっかく腰を据えて「考えよう」ってなったのに、結局何にもつながらなかったら、もったいないなって思っちゃうのです。



 ネットの辞書で調べて見ると「あれやこれやと思いをめぐらす。その事について、心を知的に使って判断する。」と出てきました。まだ具体性に欠ける表現が使われていて、行動に移ろうという気にはなれません。めんどくさそ。



 僕は、それこそ「考える」について考えてみました。結論から言うと、考えるという行為には2段階あります。①問いを立てる②答えを出すの2つです。なんだか理科の授業でならう「探究活動」の短縮版みたいですね。そうなのです。考えることは、探究すること、もっと言えば研究することのミニチュア版なのだと思います。

 ①問いを立てること。そもそも「○○について考える」という言葉じたいがあいまいなのです。何をすればいいのか分からないのです。目的がはっきりしないので、何から始めればいいのか分からない。だからどこにも行けない。



 だったら目的をはっきりさせればいいじゃない。



 ということで、「考える」目的を決める。それが「問いを立てる」こと。「環境問題について考える」じゃなくて、「身近な環境問題についての情報を集める」とか「海洋プラスチック問題に対して僕が簡単にできることは何かないか?」とか、ゴールを決めましょう。しかも簡単な、達成するのに5分もかからないようなゴールを。なんでもいいのだ。もう「○○について考える」と言ってはならない。




 ②答えを出すこと。①で簡単な問いを立てたら、もうやることは自ずと決まってきます。「1+1は?」だったら「2!」と言えばいい。「こっぱ?」と言われたら「64!」と言えばいい(コナン)。簡単でしょ? 



 僕は「『考える』について考えてみました」と書きました。それは「『考える』って具体的に何をすればいいの?」という問いに答えることだったのです。そしてその後「結論から言うと」と、「結論=答え」を書きましたよね。やっぱり考えたからには答えをださなくてはならないのですよ。じゃないと「無駄な時間を過ごした~」と変な後悔が生まれてしまうからね。

 もちろん、僕はただボーっと過ごす時間も好きですよ。紅茶飲んでドーナツ食べて、ゆっくりして、どこにも行かないぼんやりとしたことを思い浮かべる時間も好きです。ただ、「考える」となったからには最後にはどこかに行きたいのです。そのためには「考える」って何なのか、予め決めておいた方がいいと思ったのです。

ちゃんちゃん